すると急に痛みが胸に走りました。14:00頃だったでしょうか?
もしや・・
と思いつつ、そっと歩いてみると左胸がゴロゴロ・・・
手いっぱいに冷や汗をかきました。
あー、こんな時になぜやってくるんだ〜。
・・・明日の試験はどうしよう、ダンナはいないけどどうしよう、救急車を呼ぼうか、救急車が来ても、今の上下ちぐはぐなパジャマじゃ運ばれるのは恥ずかしいなぁ、、部屋も引っ越しで散らかっているから恥ずかしいなぁ、いや呼んだら近くのT医大に運ばれて「癒着」の手術になるから止めておこう、タクシーでJ病院へ行くと12000円はかかるなぁ、18日の義弟の結婚式も行けないかしら?・・・様々なことが頭に浮かび� ��したが、こんないろいろ考える時間があったら自力(電車)でJ病院へ行こう。
そうして洋服に着替えて駅まで歩いていきました。
おそらく、入院になるだろうと分かっていたので急いで、入院に必要と思われる品を集めてバックに入れて電車に乗りました。
駅まで200m。歩くのもかなり慎重に、途中で倒れ込まないようにしました。
ついたら土曜の15:00過ぎだったので夜間出入り口から入って、当直医に診てもらいました。
レントゲンの結果で
上から3番目の鎖骨の下にうっすらとラインが見えて、横の胸壁からも剥がれて肺がつぶれていました。
どういうわけかその日の当直医は「ブラはないですね」、と言いました。
もちろんブラは存在していたわけですが、以前撮ったCTでは見つかりにくいくらい、ブラは小さなものだったのです。H先生 「あなた家に一人なら、帰すわけにはいかないです。今から最低4日間、入院です」
どうして救急車で来なかったか少しなじられましたが、また説明をするのに話すのも辛く、面倒なので黙ってました。
そのまま車椅子に乗せられて入院に必要なものを売店へ買いに行きました。
そろえたつもりのパジャマも、下だけ入れてなくて、私の伯母さんでも着ないようなオバサンちっくなパジャマを3800円で購入(泣)。
コップ、歯ブラシ、タオルもそろえて5000円ほど使いました。
他に必要なものは九州に行っている夫に電話して持ってきてもらうようにしました。
寝返りもできず、ナースコールを手元に置いて寝ました。
入院期間中、歩いて良いのはトイレのみと言われました。
20:00、再びレントゲンを撮りにいきました。
なんとか肺の縮小は避けられ、ドレーン挿入からまぬがれました。
病院にかけつけたこの日、レントゲンの診断では
ドレーン挿入の可能性があったらしいのですが、呼吸器外科、および呼吸器内科の当直医は一人のみだったことと、私が「女性」だったことで、ドレーンの挿入を止めたのだそうです。(できれば体に必要以外の傷をつけたくないし、あのときの痛みはなんとかガマンできたのでそれで良かったなと今では思っています)
この日、夫の誕生日。
九州に出かけていた夫に「帰れコール」をしてしまいました。ごめんなさい・・・
微熱あり
レントゲンは、3番目の肋骨の下までだったラインが肋骨まで上がっていました。つまり、「悪化はしていません」でした。
ドレーンは挿入せずに、
日曜だったせいか担当医はまだ決まらず、男性の当直医が診てくれました。
男性先生の説明はいまいちよく分からず、質問しても同じ事を繰り返して言ったりしていました。先生 「呼吸器外科は来週か再来週まで手術で詰まっていて、今月末引っ越しならば今、手術するよりも引っ越し後にしたほうがいい・・」
というのですが、どう考えても、年に15件しか手術数のない引っ越し先の県立病院よりも手術を多くこなしているこのJ病院で、手術した方が良いように思えました。
それに来週や再来週手術でも平均入院数5日の気胸なら
私の場合半年間に3回も発病している訳だから次の再発はほぼ確実です。
いつ再発か分からない悪い肺をかかえて、引っ越しをしたり、再発をするまで飛行機に乗れなかったり、好きな運動もできずにガマンするのも辛い事でした。担当の先生が正式に決まったら手術をしたいことを伝えようと思いました
男性の先生は、レントゲンをこんなに沢山撮って良いかどうかの説明もしましたが、頭痛がしていたし、説明の意味が良く分かりませんでした。
「担当医が決まらないうちは、手術は決められない、決めない方が無難・・」ってことだったのかもしれないです。
ちょっと不満のままその日は寝ました。
寝返りは打てませんでした。
朝6:00起床、7:30朝食、12:00昼食、17:30夕飯、9:00就寝
朝と夕方に一度ずつ、体温、酸素量、血圧の検査があります。
肺がつぶれている割には酸素量は96-99%と良い値がずっと続きました。
レントゲン検査はほとんど毎日でした。
外科病棟に移ってからは毎日、食事の量、排便・排尿、飲んだ飲� �物の量を書き込む紙が渡されました。
コンセントを用いた電子機器の使用は禁止なのでTVを見るか本を読むか、手紙を書くなどして毎日を過ごしました。
熱37.3度
シャンプーを洗面台でしました。
入院が長引きそうなので、手術ができないならば18日の義弟の結婚式までには退院できるようにお願いしてみました。
夜は大分痛みが引いて寝ることができました。
4人部屋でした。
同じ部屋には、肺ガンの人、健康食品を食べて肺を悪くした人、ペースメーカーを入れて片方の肺が無い方たちがいました。
お話を聞くうちに、私の病気は比較的軽いものだと実感したのでした。
悪い病気を持ちながらも前向きな人たちでした。
部屋の湿度は30%前後でかなり低いので風邪をひかないよう注意しました。
熱37.1度
ベッドに横になったままだと胸痛はありません。
歩くと、ゴロゴロする感じでしたが痛みはほとんどありません。
H先生が来てレントゲンの説明をしてくれました。
糖尿病は腎臓の問題を引き起こす可能性があります進度は2までに治ってきていているそうですが、公共の交通機関を使って披露宴などには行ってはダメだと言われました。
救急隊を呼ぶ羽目になって新幹線や、バスなど止めてしまう恐れがあるし、披露宴などで大声を出してしまうのが良くないそうです。
悲しいけど義母に電話して披露宴に行けないことを伝えました。
頭痛があるので頭痛薬をもらいます。
平熱。
会社と保険組合に電話して、
「傷病手当金」や「高額医療請求書」の資料を送ってくれるように依頼しました。高額医療費の申請は食事は別に¥72,000以上の医療費に申請でき、領収書のコピーの提出が必要です。
傷病手当金請求書は医師に記入してもらい、3日間の欠勤には有給休暇の利用が適用されますが、4日目からの適用になります。
伯母に電話して、「
簡易保険の書類」を早めに送ってもらうようにお願いしました。この保険は4日目から適用されます。一日大体5000円くらいは出るのかな?
ダンナが見舞いに来たので担当になったH先生に、レントゲンと一緒に
病状を説明してもらいました。ブラ3-4mmがあるかもと言われました。
「手術をお願いしたい」と伝え、呼吸器外科に予約を入れてもらいました。
お風呂にはまだ入れないので暖かいタオルで体を拭きました。
手紙を書いたり、雑誌箱に入った要らなくなった新聞や雑誌を読んで過ごしました。
学会で東京に来ていた弟がお見舞いに来ました。
私のオバサンちっくなパジャマを見て、始め、私だと気づかなかったそうです・・・
尿検査
熱37度
夕方、夫と一緒に呼吸器外科のS先生(男)と、麻酔かのG先生から説明を受けました。
外科の先生からは、手術の方法、手術後、肋間神経を痛める可能性があることなどの詳しい説明がありました。
先生からは、手術しても再発の可能性は10人に一人の割合で起こっていることを説明されました。
私の通っている病院での実績は再発率0.7%だそうです。
(再発して別な病院にかかる人もいると思うし、その人はカウントされてないように思うのですが・・・)
麻酔は普通、
全身麻酔と硬膜外麻酔をするのだそうですが私の場合は硬膜外麻酔をやらないことにしました。以前、歯科で歯茎に麻酔をしたときに、動悸や吐き気の経験があったからです。
麻酔を1つ減らすのは不安が少しありましたが、すべては手術後に考えることにしました。
説明後、麻酔、輸血、手術の様々な同意書に記入をしました。
レントゲンは3番目の肋骨よりも、明らかにラインが上に上がって順調に肺が膨らんでいる様子が分かりました。
せっかく膨らんでいる肺も手術の時にはぺちゃんこに潰されるのか・・・
ちょっと残念な気持ちになりました。
体をタオルで拭いていると肺がゴロゴロと鳴り出しました。
調子に乗って体をあまり動かさないようにしようと思いました。
静脈の採血
心電図
尿検査
*外科手術に備えての検査を一通り行いました。
カーテンの取り替えに来ていてほこりが立ったせいか咳が出ました。
咳は心配していましたが胸痛もそれほど起こりませんでした。
ボランティアの人たちが移動図書館のように部屋へ本を持ってきてくれました。
あまりいい本はありませんでしたが、3冊ほど借りました。
内科から外科の病棟へ移されました。
個室に移されたので、誰もしゃべる人もないから「大部屋にして下さい」と頼んだのですが、空きがないらしく無理でした。
部屋の値段も変わらないということだったので諦めました。
ただずっとカメラで監視されているのは気持ち悪くて、看護婦さんにイヤだと言ったら、モニターには別部屋の重病患者がアップで写っているから心配しないでいいと言われました。それでもカメラの前で着替えたり、タオルで体を拭くのは抵抗がありました。
部屋の湿度は30%くらいなので、風邪をひかないように濡れタオルをハンガーにかけて加湿しました。
車椅子に乗って、手術を受けた直後に一泊す
るICU(intensive care unit=集中治療室)の見学へ行きました。3Fの渡り廊下を通って、手術室とICUの病棟へ行くのですが、そこからの海の眺めが最高でした。
早く元気になって、外へ行きたい!海へ行きたい!と思いました。
前日の夜から手術日まで夫は弟の結婚式へ行くため、見舞いには来ませんでした。
●外科病棟の大部屋の人たち内視鏡手術がダメで、胸開手術をした方がいました。肋骨を一つ抜いたそうです。手術後、肺からの漏れが止まらないらしく、次は「癒着」と言われているようでした。
後で分かったのですが、肺の漏れは大丈夫で、癒着の手術には至らなかったそうです。
手術後、肋間神経が痛むと言ってました。
隣のベッドの方は心臓のペースメーカーの交換に来ていました。今回6年目に交換を迎えたそうで、左胸に縫い傷がありました。
ずっと海外に住んでいた人らしく、海外の話をよくしていました。
三角巾をつけるように何度も言われているのに、ちっとも言うことを聞かないで、少し微熱があると、何度も体温を測って神経質に気にしていました。
夜すごい寝言といびきをかくので、夫に耳栓を持ってきてもらいまし た。
もう一人のかたはおばあちゃんで、ずっと看護学校の学生がお食事のお世話や排泄物のお世話をしていました。
毎晩、家族の方が見えてお食事を食べさせてあげているのでした。
検査なし
会社の人と友達がお見舞いに来てくれました。
本やお花を持ってきてくれました。
頭痛が取れませんでしたが話をしたりするだけで良くなった気がしました。
外は雪が降っていて、窓を開けて顔を出し、外気にしばらく触れると気持ちよかったです。
T字帯(ふんどしのようなの)3枚→実際に使ったのは1枚
紙平おむつ2枚→実際に使ったのは1枚だったと思う
吸いのみ→実際に使ったのは数秒、手術後に水を飲んだだけ
浴衣(和式パジャマ)→夫に購入してもらったのはいいけど、使用せず。普通のパジャマを利用。
*上記のものは売店などで購入し、他にICUへ持っていくコップ、歯ブラシ、お箸、スプーンなど全てに名前を書き込みました。
あなたはどのように伝えることができ、生きた細胞
検査なし
手術前日。
午前中シャワーを1週間ぶりに浴びました。
30分たっぷり使って綺麗に体を洗いました。
看護婦が手術場所の脱毛の検査をしました。
午後、ICUに持っていく荷物が揃っているかチェックが入りました。
21:00以降、
絶飲食。入眠薬(アモバン)と下剤(プルゼニド)をもらって寝ます。
手術はそれほど心配していませんでしたが、看護婦さんが「大丈夫?」「怖い?」「心配?」と聞いてくるので、そんなに大した手術なのかな?と気になりました。
3カ所穴を空ける傷口がブラジャーの中に入るようにと、看護婦さんが油性ペンでブラの線を肌に印しました
点滴(ラクテック500ml)をすると少しぼんやりとしてきました。何の薬かはわかりませんが錠剤も2つ飲みました。
夫も新幹線で駆けつけてきました。
手術室へベッドごと運ばれると、酸素マスクがつけられ、右手にした点滴に、全身麻酔用の薬が追加されると、すぐに寝てしまいました。痛いとか怖いことは手術後考えるようにしました。
起きたらICUでした。
説明にあったようにいろいろなもので体はつながれていました。口−酸素マスク
左手の人差し指−血中酸素濃度センサー
右手−静脈点滴と動脈血圧測定用の点滴セットのようなもの
胸−心拍数・呼吸数等の電極
尿管−尿道カテーテル
肺−胸くうドレーン
足にはエコノミー症候群のような症状を避けるために包帯が巻かれていました。
熱36.6度。
3cmくらいと1cmくらいのブラが摘出されたようです。
手術後は普通、手術室から歩いてICUに行くのだそうですが、私が目覚めたのはすでにICUで、夫が側にいました。
ブラを、2つ取ったこと、手術中に肺の下辺りに少し傷をつけてしまったが、バンソウコのようなので処理をしたので問題ないとのこと。(本当かな?)
肺は綺麗でブラの予備軍はほとんどなく、ここだと思われる部分にカサブタのようなのが着いていたために、そこの部分を切除したらしいです。
13:30から2時間くらいの手術でした。
ICUに付いてからは痛みのせいかあっという間に時間が流れて、いつの間にか20:00,01:00と過ぎました。
私は脊髄の
痛みの一因には、手術中の無理な体勢もあったと思います。
看護婦さんが見に来るたびに「痛いです」「痛いです」と繰り返していたら、「座薬をいれますから・・」と言われて黙ってしまいました。
座薬を入れるために姿勢を変えることさえかなりの痛みが走ると思われたのです。
「みんなこんなに痛いんですか?」と聞いたら「人に寄りますね・・」と言われました。どうやら私は痛い部類のようでした。
麻酔を一つ減らしたから、当たり前ですが・・
02:00か03:00にはいつの間にか眠れていました。看護婦さんが、点滴の痛み止めを増やしたのだそうです。
最初からそうしてくれれば良かったのに、なんて思いました。
朝、朝日と同時に起きました。
看護婦さんが私の体を拭いて、足の包帯を取り、パジャマを着させてくれました。
S先生が来て、
O川先生が咳をするように言うので、痛みをガマンして小さな咳をすると「ホチキスから空気が漏れている」といいました。
後で看護婦に聞いたのですが咳をして、胸くうドレーンの水位が下がって隣の液体がボコボコ言ったら空気がまだ肺から漏れているのだそうです。
前のベッドの気胸の方のドレーンは沢山液が詰まっているのに、私は血のような液が少しとほとんど透明な液が少しだけ貯まっていました。
「なんで液が少ないのですか?」と聞いた� �「人によって違うのです。」と言われました・・
ドレーンは20cmほどの管が肺に入っているのだそうです。
お粥の朝食が届きました。両手にチューブやルートが付いて、痛みがあったのでお粥はスプーンで投げ込むように口へ持っていきました。
朝食後、指につけていた酸素の測定をするルートもはずしてくれました。
動脈にさしていた点滴から採血が2回行われました。採血後、看護婦さんがすぐに何か処置をすると右手が急激に熱くなって手にぱっと汗をかきました。
よく分からないけど不思議な感じでした。
レントゲン医師が来てベッドの上でレントゲン撮影が行われました。
10:30 ベッドごとICUから大部屋に移されました。
午前中に「
14:00くらいになると痛み止めの白い色の点滴が外され、栄養補給のユエキンキープの点滴だけになりました。
昼飯は普通食に変わっていました。
食後には
ロキソニン1錠、ムコソルバン1錠、胃薬が渡され飲みました。朝07:30、寝返りはできなくても気持ちよく起きられたのでこの日は歩けるまでに快復しているだろうと思っていました。
レントゲンを撮りにいくために、レントゲン室まで起きて行けるようにと、痛み止めの座薬を入れてもらう予定でした。
ナースコールをすると、看護婦さんが体を動かしてくれました。
ぐいっと背中を支えたので「痛!!」と叫んでしまいました。
看護婦さんはそのまま朝食を摂らせようと、背中を持って体を上に持ち上げるのですがまたもや「痛い!!」。
もっと優しくしてくれればいいのに、あまりの痛さに朝から過呼吸になってベッドでゼーゼー言っていました。
朝食はヨーグルトしか食べられず、顔も洗えず・・。
これだったら痛み止めの座薬を入れてもらわないほうが良かったと思いました。少なくとも自分でやったほうが良かったと思いました。
咳をするとドレーンがゴボゴボと言っていました。まだ肺から空気が漏れているようです。
午前、
抗生物質の点滴が追加され、ドレーンの傷口の消毒をS先生が行います。初めて手術後立ちました。かなりフラフラになりながら車椅子に乗せられレントゲンへ向かいました。
*****************
午後。
タウリン血圧を下げるにはない尿道カテーテルを取り外しました。(男性は取り外すのは女性より違和感があるのだそう)
まだ自由に歩けないので外すのには不安がありました。
夫が見舞いに来たのでしばらく話をしていましたが、突然痛くなりました。
何かしゃべろうと思っても言葉が出なくなります。「もう帰っていいよ」
と言いましたが不安がありました。左肩後ろに痛みが始まり、痛くて動けないので17:30頃、抗生物質の点滴と交換で白い痛み止めの点滴を追加。
O先生が往診に来ますが、あまりの痛さにきちんと答える事もできず。
O先生が「ドレーンのせいだ」と言ってドレーンのチューブを挟みのようなもの(クランプ)で縛って閉じました。
左肩後ろに痛みを感じたのは初めてでした。
お見舞いでにぎわう夕飯の時間になりましたが私は一人でふさぎ込んで顔をしかめ、挨拶に応じることもできませんでした。
寝る少し前にナースコールをして痛み止めの座薬を入れてもらいました。
今回の座薬は今日2回入れたものとは違い強くて、
「吐き気が来るかもしれない」と言われました。夜、寝ていると
顔や頭が腫れあがったかのようににカーっと熱くなり、皮膚が麻痺したような感覚になりました。頭はイリーガルなクスリでもやっているかのようで、はっきりと意識はあり、考える事もできましたが、顔が熱くかゆみも少し出てきました。
ですが痛みはほとんどおさまりました。
この薬が翌日の不幸を引き起こしました。
少し気分が悪いので後で来てもらうように言いました。
起床時刻が来て朝食が届きました。
30分、一人で悪戦苦闘しながら起きあがると、頭がクラクラ、悪い船酔いをした気分になりました。
前のベッドの人が挨拶をしてくれているのですが、返答もできず。
看護婦さんが吐きそうな私の顔を見て、手をつけていない朝食を下げ、湿布を背中に貼り、しばらくして、吐き気止めの座薬を入れました。
それでも嘔吐。
トイレにも行けないほど左肩後ろに痛みがあるのでポータブルトイレを持ってきてもらいました。
ベッドに横になり、 吐き気がしばらくなくなると2本静脈から採血されました。血がなかなか出なくて、ピストン注射に切り替えました。手がしびれたら正確に血が検査できないのだそうですが、どうしても血が出ずにしびれが起こりました。
フラフラと気分悪いままレントゲン室へ車椅子で運ばれました。
車椅子を押してくれるおばさんが声を掛けてくれるのですが、ずっとうつむいて返事もできません。
昼食も摂れず。
熱37.6度あるので、水枕を持ってきてもらいました。
A先生が
ドレーンを抜きにきました。「昨日と今日の朝までかなり痛かったのですが大丈夫ですか」
と聞いたら、ドレーンを抜いたら楽になると言われました。
結果その通りでした。
1,2,3で息を止めて、声を出さないように言われました。
ほんの少しだけ痛みがあってドレーンはするっと抜けました。
抜いた後は透明なバンソウコのような物が張られて処置はおしまいでした。
ドレーン後の肺の様子を見るためにすぐにレントゲンに行きました。
揺れのあるエレベータが悪かったのかもしれません。
夫が見舞いに来ました。
夜はほんの少し食べました。
夜は少しは眠れました。
朝一人で起きることができました。
タオルで体を拭きましたがシャワーにも行かせてもらえました。
午前中レントゲンを撮りに行き、点滴を全て外しました。
これで体に付いているチューブはいっさいなくなりました。
O先生が往診に来て、「明日か明後日退院ね」と言いました。
痛み止めの座薬で嘔吐したと言ったら「誰が指示したんだ?」なんて言ってました。
もう済んだことだからよいのだけど。
夜、入眠剤のアモバンをもらいました。痛みで寝られない訳ではないけど、隣のかたのイビキもすごいから・・
一人で歩いて行けました。
お見舞いがあったので、昼過ぎまで着替えて待っていました。
苺をもらいまいた。
病院内のコーヒーショップへ行ってダンナを含めて4人でお茶をしました。
かなりゆっくりでしたがこんなに歩いたのはかなり久しぶりでした。
1週間後に抜糸をするので、来院の予約表と1週間分の薬をもらって帰りました。
薬は、痛み止めの
車に揺られて1時間で家に着きました。
●退院後
先生の説明にもあったように肺とは別に
時々 びっくりするほどぴくっと皮膚が引きつることもありました。
笑い、しゃっくり、ゲップ、深呼吸、あくびなど抵抗なくできるまで手術後、約1ヶ月かかりました。
寝ている姿勢から起きあがったりするのに少し抵抗のある感じが術後5日くらい続きました。
手術後1週間後になると、腕などはできる範囲で動かして、筋肉を延ばすようにしました。
9日目になると腕もすっきりと伸ばせるようになりました。
S先生が抜糸してくれました。
パチパチとはさみで切る音がして、出血がありました。
中のほうは固まってきているらしくほとんど痛みは感じませんでした。
抜糸後、透明の創部テープを貼り、1週間はそのまま剥がさないように言われました。
レントゲンを見ると、一番上の肋骨の陰に、
ホチキスのボコボコした形がうっすらと見えていました。・ケロイドになる可能性は少ないが気になるようだったら形成外科に行くように勧められました。
・傷跡が気になるようならば外科に行くように勧められました。
最後に「質問は?」と言われたので、「
ダイビングは毎週くらいやっても大丈夫ですか?」と聞いてみました。「左肺は大丈夫だけれども、右肺は分からない」と言われました。
この日、大事な事を聞くことを忘れていました。
「膿み」のことです。この後、膿みには悩まされました。
会社に高額医療の申請書を送付。
この日会社に行けるのが最後だったので、会社へお別れの挨拶をしに行きました。
翌日、引っ越しを兼ねて箱根に一泊しました。
ダンナが背中の創部テープがぐじゅぐじゅと水っぽくなっているのを発見。
水が入ったからではなくて
箱根では高度が高いせいか、疲れたせいか、お腹がすいたせいか、温泉に入ったせいか、退院間もないせいか、良く分かりませんが呼吸がゼーゼーとなり、気分がすぐれませんでした。左脇下もきゅっと痛みます。
その翌日は芦ノ湖に行きましたが、国道1号線の最高地点を通過し、富士山の見渡せる高度1000m地点まで行くと、気圧が低いので心配になりました。(860ヘクトパスカルくらいだったかな?)
「今、何気圧?」「今、何気圧?」と車を移動させるたびに、気圧表示機能の時計を持っている夫に尋ねました。
この日の肺は・・・
左脇下の肋骨辺りがゴロゴロする感じ。まだ肺が十分に膨らんでないのかと、深呼吸を何度かするけどそのたびに痛い。
エタノールを買って夫が創部テープを剥がしました。
「
うわー、うわー!!ぱっくり傷が空いているよ!」1週間剥がさないように言われた創部テープを剥がしたのだから当たり前かもしれません。
かなり夫は焦ってましたがあまり傷口は痛くないので おおげさだなと思っていました。
翌日、2月2日、箱根から三重県まで車を走らせると、一応 外科の病院に行きました。
病院では消毒をしてもらいました。
「
薬局でエタノールをもらって消毒していると言ったら「エタノールよりもマキロン」と言われました。
この日の肺は・・・大きく息を吸うと、痛く、左脇下の肋骨あたりがゴロゴロとなっている感じ。疲れているせいか、気分が悪く、過呼吸気味。
2月3日、三重の伊勢から兵庫県へたどり着きます。
車の助手席に座っている間は、座席に背中を着けると痛くなるので、座席から離れた姿勢を取って座っていました。
引っ越しの荷物が足下にまであり、かなり窮屈なドライブでした。
2月4日、この日は小さな外科でさっさと消毒だけしてもらうつもりだったですが、左脇下の痛みが気になって
呼吸器外科のある大きな病院に朝から並びました。レントゲンを撮ると、� �生に見せる前に夫と二人でレントゲン写真を見てみました。
今度は1番上の肋骨の上にホチキスの痕がくっきりと見えました。
どうやら肺は1月30日よりも膨らんでいるようです・・・
ひとまず安心。
先生に往診してもらいました。
聴診器を当てると深呼吸をするように言われました。
「
レントゲン写真では素人目には気づきませんでしたが左脇下のあたりが白っぽくなっていました。これが炎症を起こしている場所なのだそうです。
本来、肺は、呼吸すると、なめらかに胸膜との間を動くのに対し、私の場合は胸膜と肺の間に炎症を起こしているためにギリギリと呼吸するたびに鳴るのだそうです。
ひどい人は炎症が原因で肺に水が貯まることもあるのだそうですが 、私の場合は熱も出ていないし、おそらく大丈夫だと言われました。
このまま2,3週間しても良くならないようだったら病院に行くように言われました。
傷跡も消毒してもらいました。
運動してもよし、アルコールもOKとのこと。
この日も保険証を持っていなかったので10割負担しました。その後、引っ越し先の市役所の国民健康保険課で療養費の申請をしました。(7割の金額が返金されるのは申請後2,3ヶ月後、世帯主の口座へ)
兵庫県を発つ前にもう一度
外科に行って消毒をしてもらいました。消毒は毎日続けるように言われました。この病院の場合は、後ほど保険証が取得できたらコピーを持っていき、7割分を返金してもらいます。
このまま肺も傷口も順調に良くなりそうだし、気の知れた人たちのいる地元に戻って気持ちも落ち着きそうな感じ。
肋間神経の違和感もそれほど気にならないくらいに快復しました。
2月9日、形成外科に行くと「
膿みが出ているので手術」と言われました。「このままだと1ヶ月では治らない」だそうです。1ヶ月も!?また縫うの?本当??ちょっと半信半疑でしたが腕の良い先生だと言うことだし、早く綺麗に傷口を治したいので手術を受ける方向を考えました。
もらった薬は化膿止めのアスデュフェ、痛み止めのケンタン、胃薬のレスラート。
2月10日、「
家族は病院に行けそうにないから一人行きたい」と言ったのですが、「家族を呼んで、傷口を見せて手術の説明をしたい」と言われたので、仕事を休んでしぶしぶな母を連れてきて往診。「もうこれが最後にしやん!!(最後にしなさいってこと)」なんて母に言われたけど、私こそ、これが最後であって欲しいと願いました。
先生は傷口を母に見せて説明をしました。手術(縫合)をすれば傷口は10日ほどで綺麗になりほとんど跡も残らないとのこと。
ですが二人で相談した末、手術を行わないことにしました。
お金もかかることもさながら(2,3万くらい)、もう一度傷口にメスをいれて縫合するのは抵抗があったのです。先生の説明だと、綺麗に切った後、内側を縫い、さらに外側の皮膚を縫い合わせる手術をするとのことでした。
もう結婚しているから傷口は綺麗に見えなくてもいい。海で水着を着るときは傷口を肌色のテープで隠したらいい・・そう思いました。
毎日 消毒に来るように言われましたが、消毒は市販のエタノールとマキロンを使って、私の伯母に毎日してもらいました。
2月30日
あくびや、笑ったり、ゲップや、しゃっくりはそれほど抵抗なくできます。
くしゃみをすると少し痛む感じです。傷口はほぼ平らになり穴がふさがりましたが膿みが出ています。
3/17朝、傷の消毒後、始めてオロナインをつけて一晩寝たら傷口がとても綺麗になっていました。膿みがひいて傷口がよく見えました。
小さなカサブタの周りが直径数センチ赤く、炎症を起こしているだけ。
カサブタがとれないかな??と夫がピンセットでちょっと引っ張りました。
「あれ??」 ぐいっ。
「あれ??」
どうやらカサブタと思っていたのは抜糸し忘れた糸だったようです。
思い切ってぐいと糸を引っ張り、小さなはさみでループ状になっている糸をカット。
一本の糸だけをピンセットで引くと2cmほどの糸がするっと抜けました。
どうりで長い間膿みが出ていたわけです。
5回も医者に消毒してもらったのに医者は気づかなかったのですね・・
その後1週間、消毒のため通院。
3/27にようやく、治療が終了しました。
0 件のコメント:
コメントを投稿